日本語コレクション

―英国における戦時接収図書とスカーブラ報告―

土屋 仁美

1,はじめに

 英国には「四大日本語コレクション」と呼ばれる日本語出版物の蔵書がある。英国図書館(大英図書館)、ロンドン大学東洋アフリカ学院図書館、ケンブリッジ大学図書館、オックスフォード大学ボードリアン日本研究図書館、以上4館の日本語コレクションである。本稿では、特にロンドン大学東洋アフリカ学院 (SOAS)図書館とケンブリッジ大学図書館について、戦時接収図書と「スカーブラ報告」の資金による蔵書拡大の2点についてまとめる。

 

2,ロンドン大学東洋アフリカ学院(The School of Oriental and African Studies、通称: SOAS 〈ソアス〉)

2.1 概要

 ロンドン大学は1836年設立、東洋アフリカ研究学院(以下SOAS)1916年に創設された。SOAS図書館における日本語・日本研究資料は日本・韓国セクションにあり、蔵書は図書約12万冊(うち欧米言語約2万冊)、年間増加冊数約1,500冊、雑誌約500タイトル、カレント和雑誌約180タイトル。蔵書の傾向は、文学・歴史・近世演劇・民謡などに強く、特に地方史のコレクションが充実している。古典籍資料の所蔵は約700点。主要なものとして、「古今和歌集」(写本3点: 鎌倉末期、室町末期、長禄3(1459)年、「羅葡日対訳辞書」(きりしたん版・文禄4(1595)、「遣欧使節対話録」(1590)などがある。

2.2 戦時中接収された日本語書籍

  戦時中、英国とヨーロッパで接収された5000冊以上の日本語の書籍がSOASの極東学部に集められた。1952-53年のSOASの年報によると、欧州各地の日本大使館及び領事館にあった2000点以上の日本語の書籍がSOASに寄贈され、同館が不要とした数千冊の書籍は他の図書館に寄贈された。1949年以前SOASには、日本語書籍は3000冊ほどしかなかったが、戦後、敵国財産として接収された大量の日本語書籍がSOASにもたらされた。

2.3 ベルリン日本大使館の日本資料

 戦後、英国管轄地区にあったベルリン日本大使館の図書館には、まとまった数の日本語書籍が残されていた。資料の総数は全体で約25,000冊(大使館関係者など個人の資料多数)で、大部分は日本語の資料であったが、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、ポーランド語などの資料も含まれた。敵国戦時出版物委員会(EPCOM)によって集められた資料は、英国政府刊行物出版局(HMSO)を通じ、有用とみなさた5000冊のうち、2500冊の日本語資料はSOASに、スラブ系言語の資料2500冊はロンドン大学スラブ東欧学院に寄贈された。これは英国合同情報委員会ドイツ文書部のジョン・マースデン中佐という人物(戦時中は情報将校として活躍)の指示であった。残りの2万冊はほとんど価値がないとされ、バート・エーンハウゼン(ドイツ)のドキュメント・センターの資料として吸収され、後にかなりの数の書籍がドイツの地元の図書館に寄贈されたらしいが、詳細の記録は不明という。

 このベルリン日本大使館の日本資料は、日本人がドイツへ移住していたために、欧州各地の資料が集結していた可能性がある(小山2018)。あるいは、オランダのハーグの日本公使館所蔵書籍は、英国に接収されたように、実際に欧州各地の接収図書が英国に集められた可能性もあるという。いずれにしても、SOASに残された接収図書には、英国で接収されたもの、ベルリン日本大使館関係の資料が圧倒的に多いという。

 

3,ケンブリッジ大学図書館

3.1 概要

 ケンブリッジ大学図書館の日本コレクションは、約1万冊の古典籍を含む10万冊以上の日本書籍を有し、日本の定期刊行物も数百冊購読している。所蔵する古典書籍や写本は、欧州でも有数の規模と質を誇り、主に19世紀後半に日本を訪れた西洋人によって収集されたものである。ハインリッヒ・フィリップ・フォン・シーボルト男爵こと、「シーボルト事件」のシーボルトの次男が収集した資料721冊(彼の養女によって1911年に寄贈された)、同年ウィリアム・ジョージ・アストン(アーネスト・サトウとともに幕末の英国の対日交渉を担い、英国公使館附日本語書記官、のちに日本学者)から、日本関係資料およそ19009500冊が譲られた。1912,13年にはアーネスト・サトウの日本古典書籍から400点が寄贈された。また1939年ごろ、野上豊一郎 (外務省からの日英交換教授として渡英)による謡の美装本の寄贈もあったという。

3.2 戦時中接収された日本語書籍

 ケンブリッジ大学において、日本語学科創設、日本コレクションの拡大のため中心的に動いたのは、グスタフ・ハウラン教授をはじめとする同大学の中国研究者たちであった。ハウラン教授は、中国学における日本語文献の重要さを強調し、ケンブリッジ大学図書館における現代(近・現代)日本語書籍の欠乏を訴えた。ハウラン教授はベルリン日本大使館の日本語資料を強く求めたが、敵国戦時出版物委員会(EPCOM)への要請もむなしく、それらはSOASに送られてしまった。しかし、英国内で敵国財産として接収された他の日本語資料は、英国政府出版局(HMSO)に保管されていた。同館は、ロンドン日本大使館接収資料をHMSO から15117冊を£10で購入、SOASからも53冊の接収書籍を寄贈図書として受け取った。

戦後まもなく日本語書籍の入手が困難であった時期は、敵国財産として接収された日本語資料が重宝された。しかし1947年の「スカーブラ報告」からの資金によって、日本から直接書籍の購入ができるようになる。

3.3 スカーブラ報告 (1947)

 英国における東洋研究の発展は、研究の方向などを示す勧告や財政的な支援を伴う「報告書」によってその歴史を見ることができる(小山2018)。「スカーブラ報告」(東洋、スラブ、東ヨーロッパ、そしてアフリカ研究に関する各部局の協力による調査委員会の報告)は、特に図書館の蔵書に大規模な財政援助を伴い、戦後英国の東洋研究に大きく付与した。

 ケンブリッジ大学図書館は、1949年と1950年にスカーブラ報告書の補助金により、大量の日本語書籍を日本から直接購入した。また1949年にハワイ大学より約330冊の日本語書籍(それらの多くが戦時中太平洋地域で接収された日本語書籍)を購入した。スカーブラ報告の勧告によって、英国の大学補助金委員会(University Grants Committee, U. G. C) から極東研究(中国・日本) のために交付された資金額と用途は以下の通り。

・ケンブリッジ大学:£6000

 1949年グスタフ・ハウラン教授が中国と日本に赴き、中国語と日本語書籍2187 

 点、16548冊を購入

 194950年合計383124279冊の中国語・日本語書籍を収集した。

・ ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)£5000(これに加えSOASの自己資金α)

 1950年フランク・ダニエルズ(SOAS初代日本学教授)来日し日本語書籍を購入

 1948-49年、サイモン教授を中国語・日本語書籍購入のため中国・日本へ派遣

 194850年の間に約3万冊弱の中国語・日本語の書籍を購入したと推測、正確な

 数字は不明(小山2018

 

4,まとめ

 第二次世界大戦後、英国には国内で敵国財産として接収された日本語書籍のほかに、欧州各地、ベルリン日本大使館にあった日本語資料がもたらされた。これは大戦末期、多くの日本人が書籍・資料とともに同盟国ドイツに移り住んでおり、戦後ベルリン日本大使館が英国管轄地区にあったためである。特に、ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)は、戦時中ヨーロッパ各地・英国内で接収された日本語書籍、文書など、接収図書を受け取った中心的存在であった。その後、スカーブラ報告による資金援助によって、SOAS図書館とケンブリッジ大学図書館は以降の東洋研究、日本研究の素地となる日本語蔵書の拡大が行われた。ケンブリッジ大学において戦後、日本語資料収集に尽力したのは、中国学の教授であった点は興味深かった。

 

5,参考文献

江上敏哲(2005)「欧州の日本資料図書館における活動・実態調査報告 : 日本資料・情報の管理・提供・入手」大学図書館研究 73, 45-56.

小川誉子美(2020)『蚕と戦争と日本語 : 欧米の日本理解はこうして始まった』ひつじ書房.

小山騰(1996)「英国における日本研究資料の発展の歴史―特に近代日本語図書館コレクションの設立について」『日本研究京都会議』国際日本文化研究センター. pp, 104-109.

小山騰(2018)『戦争と図書館-英国近代日本語コレクションの歴史』勉誠出版

倉持隆(2017)「英国における日本古典資料 -英国図書館研修報告-」大学図書館研究. 106, pp,23-35.

SOAS Library, SOAS University of London(最終参照2022710)

Japanese Collections | Cambridge University Library(最終参照2022710)

Japanese Works (cam.ac.uk) (最終参照2022710)